日本には昔から俳句とか川柳とか、限られた言葉の中で自分の感情を伝える手段がありました。小学校でも百人一首の勉強で日本語が持つ独特の言葉遊びを体験しそれを学びます。
10言っても2しか伝わらない
でもそんな日本の美しい言葉の文化は廃れてゆき、「そんなこと聞いてない」「そんな事は伝えてもらっていない」という言葉が会社でも当たり前のように飛び交うようになりました。その原因の一つとしては相手の言葉足らず・説明不足と認識されている事が多いのですが、実際のところどうかと私は思います。
たとえば、
ーーーーーー数日後 (○日 当日) ーーーーーーー
なんて事は多々あります。これは説明不足と言えるでしょうか?皆さんはどう思われますか?
パターンによって解釈の仕方は様々ですが、こういったケースは社会において少なからず見受けられます。京都では訪問先で「お茶漬けでも…」と言われたら「帰ってくださいませんか?」の意味を差すというのは有名な面白話ですが、そこまでいかなくても日々の生活の中で「その日は忙しい」「その日は用事がある」「行けたらいく(関西人特有)」「今度お茶しましょう(社交辞令)」など多くの言葉に秘められた意味が伝わらない時代になってきています。
よく中高年の年代の方が「最近の新人は1から10まで言わないと通じない!」と憤り、新人の方が「全部きちんと言わないアイツが悪い!」と飲み会で同年代に愚痴っているアレです。
ところが2の事が10’で届いている事も多々
ところが一方で2しか言葉に出していないのに10’(10ダッシュ)で相手に届く事も多々あります。本文中には一切書かれていない事を勝手に相手が解釈して判断するケースです。(10’はきちんとした10では無いという捻じれて解釈するという意味で考えていただけたらさいわいです)
例えば、
ーーーーーー新人さんが発見!ーーーーーーー
この場合は解釈がうまくハマれば優秀だと褒められますが、ハズれたらとんでもない事が起きます。
この新人さんがこの後ナデナデされたか怒られたかは神のみぞ知るですが、確かに先輩は「処分しようと思っていた」と言葉に出していますが、処分の方法までは言っていません。ですが2の事を10でとらえた新人さんは先日の台風の件の失敗を生かして一生懸命に頭を働かせて一歩先に進みました。そこは大いに褒めるべき点です^^
先輩が最後に本当に必要か不要かのチェックをしようと思ってたとか書類をPDF化しようと思ってたとかはわかりませんけど(笑)。「お願い」と任せた以上は特別な処分方法を考えているなら日頃から伝えておくべきでしょう。
結局のところいつの時代も同じ
多少の違いはあるでしょうが、個人単位でいえば今も昔も10言った事に限って2しか伝わっておらず、2しか言っていない事が10’で伝わっているように思います。ただ、一部の飛び抜けた観察力を持った人が「先輩はいつも台風の日には相手の事を考えて日をずらしてるな」とか「先輩は書類の処分はチェックしてPDFにしてからシュレッダーかけてるな」とか見てるんですよ。そういう観察力を持っていない限り足らずも余りも生まれます。
ですが、最近は誰もが情報発信者で自分の解釈を織り交ぜて情報として発信できる時代。このブログにしても私の解釈でしかありません。より多くの人に興味を持ってもらえる為にはドラステッィクというか、書かれていない事でも妄想して多少の拡大解釈も必要となります。その方が共感も得られますしね^^
そういう意味では少しは後者の自分の解釈が強い方は多い時代なのかもしれません。
ですが、「最近の子?」「新人?」に限らず、いつの時代も10言っても2しか伝わらない人は多く、2の事を10(もしくは10’)で解釈する人は一定量存在します。そのわけ目となるのは観察力。モノを貪る時代からモノを与えられる時代になっています。観察の必要なんてあまりなかったのです。仕方がないですよ。
だから先輩とか上司なら観察する事を教えてあげて欲しいです。「最近の新人はっ!」と憤る前にね。いつまでも相手に「して貰う」事ばかり望んでいてはいけません。それが与えられる側から与える側の立場になったという事なんですよ^^
私も教えられることだらけですが、教える事も増えてきました。自戒の念も込めて相手に伝える努力をしてゆきたいと思います。
コメント
カメラの情報を探していたらたまたま当ブログに。
素晴らしい内容でした!
たろうさん、コメントありがとうございます。
自分に言い聞かせる思いも込めて書きました^^
またのぞきに来てください♪
意識した観察力は当人の素晴らしい努力と思います 意識してないし結果がたまたま良い方に転がるだけで評価されてるような気がするのはどんなタイプでしょうか?